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糖質制限2 [日々感じたこと]


 なんちゃって糖質制限を少しずつ続けている。

 といっても、何がやばいのかよく分からない、本を読んでも頭に残らないので、とりあえずご飯を食べてないだけ。

 直近の主な実験結果は以下のとおりです。
 
 1.いきなりステーキ
 
 肉と一緒に食うと幸せに旨いご飯を泣く泣く断念し、サラダとステーキ(300g)だけ食べる。
 私の場合、肉系を食べる時、「胃にもたれて油から来る吐き気」が定番。
 でも、お腹は超スッキリで、むしろ2,3時間後に腹が減りました。
 もしかして、今まで「胃にもたれ&吐き気」をもたらしてたのって、ご飯なの?

 2.昼飯にご飯を抜く
  
 毎日、食堂で多めのご飯を食べていたが、やめてみた。
 といいつつ、代わりに何を食っていいのか分からなかったので、外で小さなサンドイッチを食べてしまったが、驚いたことに、午後眠くならず平常運転。
 昼食後って、「午前の疲れでうとうとする」のが当たり前だと思ったけど、実はご飯のせいだったのかもしれない。(サンドイッチを食いすぎてたら同じ状態だったのかも)。

 3.大戸屋
 
 鶏の香味揚げを単品で頼み、豆腐のネバネバ和えをオーダー。
 鶏のボリュームがすごかったけど、これまた食った後の気持ち悪さなし。
 山芋はよろしくないみたいだけど、別に気にならなかった。

 4.その他の気づき

 今までは、思い切り腹が減る→がっつり食う→腹パンパンで苦しい、の繰り返しであったが、そこまで腹が減らず、また、そこまで腹が膨れなくなった。
 一言でいえば、中庸の状態。
 また、なぜか、ご飯を食いたいとは思わなくなった。

 最後に、糖質制限って、本当にこだわろうとしたら、自炊するしかないのかな、と思う。
 見渡せば糖類がいっぱい入った食品ばっかりだし、成分の表示に「糖質」を表示してるのはほとんどないし。

 5年くらい自炊経験ゼロだが、ちょいとやってみようと思った秋の夜。

 






タグ:糖質制限

「個」に生きるか、「世」に生きるか。 [日々感じたこと]

 今日は、雨で外に出られない。

 ということで、先月に代官山のツタヤで買っちまった「縛られた巨人-南方熊楠の生涯」をやっとのことで読破した。

 貪欲なまでの学習意欲とそれに裏打ちされた博学・博識、そして、こうした識見と裏腹にはちゃめちゃな言動。熊楠の場合、とかく後者が強調されて冒険活劇っぽく書かれやすい。

 しかし、この本は、書簡を中心とする史料を丹念に読み解いており、彼の人生を偏りなく理解する上で役に立つと思う。

 読んだ印象として、確かに、若い頃までは、「超ウルトラ型破りな若き研究者」として、まるでドラゴンボールの孫悟空のように、痛快に運命を切り開いていく。

 しかし、米国から英国に渡って少し経つころ、あることに気づく。

 彼は確かにすごいんだけど、「人生が広がっていかない」のである。

 日本に帰国してからは尚更のことで、庶民に交わり、庶民の目線を持つことはいいことかもしれないが、せいぜい「庶民のヒーロー」のまま人生が縮んでいく。何だかロッキー5みたいに。

 孫文との付き合いや、昭和天皇御幸の際のご進講(レクチャー)くらいが華で、あとは、世間にぶつかり、弾かれながら、魂が削られていく彼の姿が痛々しい。

 さて、全編を通じてずっと出て来る登場人物は、熊楠と弟の常楠であるが、作者は、2つのテーマを彼らに埋め込んだのではないだろうか。それは、「個」に生きた熊楠と、「世」に生きた常楠である。

 常楠は、亡父から家業を託された。長兄の放蕩による損害もうまく処理し、父からの遺産を元手に酒造業を興すことに成功した。まさに、資本主義の世の中を上手く生き抜いた人である。

 一方、熊楠は真逆である。非凡な才能を持ちつつも、世の中と交わることを嫌った。
 大英博物館の正規職員になるのを断ったり、米国からの招へいを断るなど、特定の組織に属することを嫌った。また、柳田国男等との知識人・有名人と交流を持ちつつも、その交流から何かを生み出すことはなかった。

 また、帰国以後も、社会運動にのめり込むは、近所とのトラブルに巻き込まれるはで、その傑出した能力と限られた人生の時間が、本来の用途でないところに消費されていった。

 熊楠の在野の精神には敬服するところがあるが、それを世の中から見れば、「定職を持たず、定まった収入がなく、社会的地位が不安定な人」である。そのコストは、常楠が負担した。
 また、もっと大事なことは、世に交わってヒト・カネといった資源を有効に結びつけないと、個人プレー以上のことはできない、ということ。

 この生き方は、大いなる結果の相違を生む。

 彼らが生まれて百数十年が経過しているが、何が残ったか。
 
 常楠の家は、いまも清酒「世界一統」を作る立派な酒造業者である。

 一方、熊楠はどうか。私の知る限り、彼の事績が誰かに受け継がれ、体系化・拡大されることはなく、彼の個人プレーで終わってしまった。

 世に認められて初めて、個は光り輝く。
 世は、個を照らす光。
 だから、世に交わることなくして、私たちは生きられない。

 そんなことを考えさせられた一冊でした。

 ちなみに、少々話は外れますが、本書では、父の遺産を巡って、常楠が腹黒い人間のように書かれています。

 常楠は、熊楠が受け継いだ遺産を管理していましたが、英国遊学時の送金を渋り、これが熊楠の帰国の要因になったとか、熊楠から預かった印鑑を使って証書を偽造し、故郷の土地を勝手に自分のものにしたという話云々。

 常楠からすれば、家業の再興が第一。父親からの貴重な資金が、リターンの見込めない飲み屋の酒代や本に消えていくのが耐え難かった、だから商売に有効活用しようとしたのだと思います。
 実際、英国時代のくだりを読むと、手元にカネがあるとどんどん使ってしまう熊楠の姿が書かれています。あの状況を知ったら誰でも不安になると思います。

 「世界一統」、ぜひ飲んでみたいですね。

インナーサークル [日々感じたこと]

 明治神宮前の打ちっぱなしに行ってみた。

 ストレスと疲労で一日寝てようと思ったが、10打も打ってると、気分が晴々した。

 帰りは、周りの景色を見ながら246沿いに歩いて帰る。

 このあたりの通りはなかなか洒落てるし、霊感があるわけではないけど、何時通っても風通しがよくて、吹き抜ける風が気持ちいい気がする。

 さて、2~3キロ歩きながら思ったこと。

 それは、職場のしょうもないインナーサークルのお話。

 管理職の年代に多いのが、自分が如何に出世コースに乗ってて、出世コースに連なる方々のサークルの面々といかに仲良くやりとりしてきているかを、なぜか若手中心の飲み会に来て誇らしげに語る輩たち。

 もちろん、全然面白くない。

 「他人の話」、「昔の話」ばっかりされたって共感のしようがないからである。

 共感の「感」って、「感じる」の「感」でしょ?

 自分が「感じた」ことを話すってことでしょ?

 それがコミュニケーションだと思うけど、今までそうやって生きてきた人間がやり方をいきなり変えられるわけがなく、若手や中堅どころは、ビールのグラスを手に持ったまま、眠気をこらえてポカーンとするしかない。

 空気を読んで家に帰ってくれればいいのだが、自分で作った沈黙が怖いのか、出世コースさんは、更に根性論と説教を振りかざし、私たちの飲み会の持ち時間が、更なる沈黙の中で徒に費消されていく。

 そんなに自分がすごいと思わせたいのか、それとも、そんなに自信がないのか。

 職場の飲み会がどんどん消えているって聞くけど、こういうドン引かせ系の人間がまだいるのが大きな原因だと思う。

 さて、ここまで読んで、「俺はこんな人間じゃない!」と思う人もいるけど、自分も含めて注意喚起をします。

 「インナーサークル」なんて小難しい言葉を使いましたが、平たく一般化すれば、「自分にしか知らない話をして得意がること」ということです。「自分(ら)の殻に閉じこもる」「知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で~♪」と言い換えてもいいかもしれない。

 例えば、自分(ら)にしか分からないカタカナ専門用語を振りかざして優位に立った気分になるも、実は大したこと言ってない、なーんてのはよくやってしまうことです。

 話すなら、相手に思いを伝える。本当に大事だと感じたことを、自分に腹落ちし、相手にも分かる言葉で話したいですね。それで通じたらラッキー。人間、千差万別なので、万人受けする必要はなしです。ちなみに、先ほどの出世コースさんの場合、そもそも相手に思いを伝えようとしてないところがミソです。というか、ク○です。

 私ならどうするかって? 

 感じたことを表現して、100人中90人に嫌われても、残りの10人くらいと通じあえればそれでいいかな、と思っています。

 










なんちゃって糖質制限 [日々感じたこと]


 最近、中年になったせいか、次の症状が出てきた(汗)。

 ・ご飯やパンを食べると眠くなる。
 ・そして、胃にもたれて腹が苦しくなる。
 ・定食でご飯少な目を選ぶようになった。
 ・ラーメンが食べられない。

 とはいえ、午前帰りが当たり前の職場なので、ストレスがたまると、つい夜中にこれらに手を出して、翌朝ものすごく後悔する日々に変わりはない。

 そんな先週のある日、たまたま文教堂をぶらぶらしていて手にとって買っちまったのが、

「炭水化物が人類を滅ぼす」(夏井睦)

 作者は医者であるが、医者っぽくない熱のこもった刺激的な文章で、サクサク読める。

 「食べると猛烈に眠くなるし、次の日、目覚めた時に、胃がむかついて二日酔いだからだ」(P32)

 それって、まさに俺じゃん。。。

 また、路上のゲ○を見ると、残っているのは往々にして炭水化物であり、肉類は既に消化されているとの記述にも刺激を受けた。
 
 その数日後、さっそく行動に移す時がやってきた。
 
 今週のある日、時間は午前2時。晩飯を食べのがし、唯一開いていた「かぶ金とん」に入る。
 
 いつもならビールとつまみ一品、そしてご飯ものに行ってしまうが、ぐっとこらえて次のメニューをオーダー。好物の石焼チャーハンを我慢するのは実に辛かった。

 ・かぶ金とん焼(たれに漬け込んだ豚を焼いたもの。並みでもかなりでかい)
 ・漬物の卵焼き
 ・焼酎水割り

 それでも結構な量だが、余りの旨さと空腹に30分以内でがっつり平らげてしまった。
 
 家に帰ったのが午前3時頃。このまま寝たら絶対二日酔いだろ?と思ったが、1日の疲れで頭と体が重くなり、そのまま爆睡。

 そして、朝。頭痛と吐き気が.....と思ったら、全然ない。ロ○ソンのおにぎり食べて寝た翌朝とも全然違う。何だこの平常モードは?
 
 ということで、偶然に知ってしまった糖質制限。
 
 時々やってみようと思う。

 














 





思ったことを相手に伝える [日々感じたこと]

 「思ったことを相手に伝える」

 これが何気に難しい。相手にとってマイナスになりそうなことだと、「思う」まではできても、気が引けて本人に伝えられない。フラストレーションがたまったまま、本人のいないところで陰口を叩くという不毛なプロセスを繰り返すことになる。

 そんな時、たまたま読んでいた「Practicing The Power of Now」(金出して買いましたが、本文は思い切りネットにアップされてます。)で、気になるフレーズに出くわした。

 該当箇所は、「感じたことを非難することなく表現し、○オープンかつ身構えずにパートナーの言うことに耳を傾けよ…相手と自分にスペースを与えることが肝要」というくだり。

(英文)
Learn to give expression to what you feel without blaming. Learn to listen to your partner in an open, non defensive way...Giving space to others and yourself is vital, P89

 もちろん、読んだ時には、完全に他人事。「言うは易く行うは難し」だよなあ、で放置していた。

 そして、先週の職場。前から続いていたことだが、ボスのパワハラとしか思えない、マシンガン質問+クラスター爆弾のような「あれ調べろ、これ調べろ」的な発注の嵐に耐えられず、同僚がブチ切れ、そしてダウンした。まさに、Not giving space to others の典型である。

 私が席に戻ったのは、騒動が落ち着いた時であったが、今度は私がボスに呼ばれた。

 曰く、「彼は何でダウンしたんだ?彼がどんな仕事を抱えていたんだ?」と、必死で私を詰めはじめた。

「なんちゅう神経しとんねん!」

とさすがに感情が高ぶったが、ふと上記のフレーズを思い出し、深呼吸。

 そして、ずっと前から感じていたボスの仕事の問題点を指摘した。そして、私にとって望ましいふるまい方についても伝えた。

 暫しの沈黙。

 また怒られるんだろうと思ったが、言ってしまうと意外に腹が括れるもので、不思議に何も怖くない。

 そして、ボスが微笑んで言った。「わかった」

 あれ?何だか想定外な反応…。

 以来、職場の雰囲気が少し明るくなった。
 先ほどの同僚も、前より生き生きして働いている。

 この事件を通じて、思い切って言ってみてよかったと思う一方、言わなければ、現実は何も変わらず、自分はストレスを溜めたまま愚痴り続けていたんだよなあ、と怖くなる。今まで、人生の大部分で選んでいた生き方は、後者だったんだよなあ。

 最後に、関連しそうなフレーズということで、佐久先生の論語の訳をつけときます。
 ドキッとした方は、もっと自分を表現してみましょう。

(衛霊公第十五)
 十七 寄り集まって一日中クッチャべっていながら、天下国家のことにはまったく触れず、コセついた話題にチエを浪費しているような連中は、どうにも救いようがないやね。






















タグ:Power of Now

「もう笑うしかないっすよ。。」という場面で本当に笑うとどうなるか?---ネガティブな感情への新対処法 [日々感じたこと]

 今日は、表参道交差点の居酒屋で焼き鳥丼を食べる。

 鶏肉は炭火焼きで、外側はカリッと、中は芯まで火が通っている。
 そんな幸せな鶏肉に甘辛いタレが絡み、もう至福のひと時。
 
 でも、997円。そんなもんです。

 さて、帰りに立ち寄った家の近くの星野珈琲店で思いついたことを語ります。

 いま、仕事がめっちゃ忙しく、上司が方針も出せずに切れるは、デッドラインが迫るはで、もう大変な状況に置かれています。
 
 私も同僚も疲労困憊、体も心も折れそうになったとき、ふと、苦笑いしながらタイトルのような話になりました。

「いや~、こんなこと、早く終わってほしいよなあ~。終わるまで笑うしかないっすよね。」

 この日は特に滅入っていたので、ふと、突き抜けるような一言を発してしまいました。

「じゃあ、笑ってみようぜ!」

 言ってしまった以上、すぐさま、同僚を巻き込んで数秒間アハハハハハハ、、、を続けました。
 
 すると、本当に楽しい気分になってきたのです。

 更に、もう一つの技を編み出しました。

 それは、「愚痴の出口を食べ物にする」というもの。

 例えば、「○○(気に食わない上司)って、マジ△△だよなあ」と言いたくなった時、△△の部分を好きな、あるいは今食べたい食べ物に変換するのです。

 当時は、△△を中トロの寿司といちごショートケーキに変換しましたが、これまた、楽しい気分になってきたのです。

 この2つの経験からの気づきとしては、ネガティブな感情に、出口を置いてやり、そこに「ポジティブなドア」を置いておくと、なぜか感情がプラスになってドアから出て行ってくれるのではあるまいか、ということ。

 これって、ネガティブな感情を出口なくして溜めに溜めて爆発させるよりも、よっぽどいいことじゃないのかなあ、と思いました。

 最近文庫本になった、池谷裕二さんの「脳には妙なクセがある」には次のような記述があります(P135)。

・ミュンテ博士らは、笑顔に似た表情をつくると、ドーパミン系の神経活動が変化することを見出しています。「ドーパミン」は脳の報酬系、つまり「快楽」に関係した神経伝達物質であることを考えると、楽しいから笑顔を作るというより、笑顔を作ると楽しくなるという逆因果が、私たちの脳にはあることがわかります。

 ブチ切れそうな時や勘弁してほしいと思った時、ちょっと試してみて下さい。







 





腐れ縁から離れる時 [日々感じたこと]

 代官山のツタヤへ行く。

 ここのツタヤは何となくレトロな雰囲気があって好きだ。
 店の中に入っているスタバでコーヒーを飲みたいと思っているが、いつも満員でなかなかトライできない。

 さて、そんなツタヤでつい買ってしまったのが、ジョン・キム著「断言しよう、人生は変えられるのだ」である。

 これまた金言の山のような本であるが、印象に残ったフレーズが、「参加するコミュニティは厳選する」である。これは、自分にとってはどうでもいい、あるいは肌に合わないと思ったコミュニティから離れるべし、という意味。

 別のページでも、「自分の人生にとってどうでもいい人たちと時間を過ごすことで、大切な人との時間が奪われている、ということに気づかなければならない」と語る。

 私の場合、この1年で2回あった。

 一つが、学生時代からのつながり。
 
 ただ、「付き合いが悪い」と言われたくないのでキープしていた繋がり。忙しさにかまけて連絡をとっていなかったらいつの間にか途切れてしまった。

 もう一つは、半ば自己啓発的なスクールの生徒同士のつながり。

 最初の頃は、みんな熱く夢を語っているけど、やってることは地味。挫折している人がいるのに見て見ぬふりをし、現実を直視せずひたすら熱くあり続ける、不思議な人たち。
 
 チャレンジすることを応援するのは結構だけど、無鉄砲な人たちを崖から突き落としているようにも見えた。

 
 これら2つのつながりで共通していたのは、直観的な違和感。
 そして、つながりが切れる時の不安とは裏腹な何とも言えない爽快感である。

 ただ、そんなことやってて一歩間違えると、文句ばっかり言って孤立するひねくれ者である。

 さて、キムさんの説く「コミュニティを厳選すべし」の基準は何だろうか。

 私の考えでは、自分がやりたいことを行う上でプラスになる繋がりを選べ、である。
 そのためには、まず、「自分がやりたいこと」をはっきりさせる必要がある。

 そうしないと、類は友を呼ぶの法則のように、同じような人達の集まりを自ら引き寄せてしまう。この1年間の空回りの原因って、もしかして自分だったんじゃないかという気もしてくる。

 今度は、慌てず、じっくり考えようと思う。









現状に不満タラタラのくせして変われない自分 [日々感じたこと]

 昨晩は、ちょっと高級そうなカフェ「桜丘カフェ」へ行ってみる。
 行ってみただけである。
 
 薄暗く、高級感のある店内が何だか落ち着く。

 贅沢にステーキ、、などと行きたいところだが、リッチではないので、イワシの身がふんだんに入ったパスタをオーダー。1000円です。そんなもんです。
 
 しかし、かなりうまい。
 何より、1000円でリッチな気分になれたのは大きな収穫。
 思わず水をおかわりして粘ってしまったが、時々行くことにしよう。


 さて昨日、ようやく斉須さんの「調理場という戦場」を読み終えたので、一言。

 今日のテーマは、「現状に不満タラタラのくせして変えられない自分」です。

 面白味のある仕事が減っていく一方、職場の逆ピラミッド化が進み、年寄りが上に詰まって意思決定のラインが伸びます。そして、古臭く、つまらない指示が増える。俺はこんなことやってていいんだろうか。。。

 そんな日々に疑問を持ってしまうと、この現実から抜け出したいと思うのが人情。
 しかし、ここに罠があります。
 
 「どこへ行っても安心できるスキル」を求めてしまう。
 そして、馬鹿の一つ覚えで英会話、簿記、合格率の低い資格を目指し、挫折するのです。
 まるで、引退後に手打ちそばを打ちたがる退職者のように。

 そんな自分に、斉須さんの言葉がガンガン刺さります
(P208、209)
・お店を開くとしたら、万全のスタートは誰にだってできっこない。
・「もっと万全になってから」と考えていたら、いつまで経ってもお店を開けないままで終わります、きっと。
・必要なものを待っていたって、間に合わないわけだから、とにかく行動が先に来るんです。
・それで、必要な行動というか「切実な行動」が積み重なっていったら、そこにいろいろな人が介在してきて、なぜかだんだん形になっていくんです。

 じゃあ、斉須さんみたいに徹底して行動すればいい、ということではありません。斉須さんは次のように語っています。

・ぼくが持ち続けた夢は、「フランスの仕事を、日本でもやりたい」ということだけでした。

 斉須さんは、シンプルな「夢」を持ち、その夢に向かって「行動」していったのです。

 自分の話に戻ると、「夢」の代わりに、現状への不満。「行動」の代わりに、「行動」につながっているのかもよくわからないエンドレスな準備。「夢」もなく、「夢」につながる「行動」もないのです。傍から見れば、現実を前に徒手空拳、そして現実を余計につまらなくしているだけです。

 じゃあ、どうすればいいか。
 今更ながら、夢を問うてみることかなあ、と思います。

 そういえば、生まれてこのかた、「この大学・会社に入ればいい」という世間体に汚染され、夢を見る、というか夢が何かを問うことすらしてこなかった。。
 そして、その世間体という一本しかないレールがどうも老朽化して、行先の視界が不明瞭になっているように思えます。

 ここらで立ち止まって、レールの周りの風景を見てみようと思います。
 風景に感動する自分の心に立ち変えってみる、ということかな。

 「自分が本当にやりたいことってなんだろう」
 「自分が好きなこと、感動したことってなんだろう」
 
 そんな問いを自分に発していこうと思ふ。

 すごい本との出会いに感謝。
 





 





 

「お前の態度は一体何なんだ!」って何だ? [日々感じたこと]

 今日は、久々に宮益坂のラケルに行く。
 久々といっても、10年ぶりである。
 ふんわりした卵、同じくふんわりしたラケルパンは昔そのままだった。
 
 本を読みながら、思い出した事。

 ある日、地方に出張に行った際、ホテル近くのコンビニに行った。
 缶ビールを手に取ってレジに行ったとき、
 隣のレジに気難しそうなおじさんがいた。
 見た目は初老、小柄、表情はいかにも頑固おやじである。

 ビールをレジに置いたとき、この男性が怒鳴り出した。

「お前、いったいどういう態度してんだ!」

「お前、いったいどういう口のきき方してんだ!礼儀をわかってんのか!」

 隣のレジは、東南アジアから来た感じの若い男性。
 突然の出来事にびっくり仰天。
 凍り付くような雰囲気が続く中、レジの彼は涙目になった。

 端から見る限り、このレジの方の対応は普通である。むしろ日本語ネイティブでないのに一生懸命頑張っているというように見えた。はて、一体何が....。

 30秒ほど考えて、はっと気が付いた。
 
 「どういう態度・口のきき方してんだ!」
 「礼儀をわかってんのか!」
 
 この文句がずばり当てはまるのは、まさにこのおじさん自身ではないか!

 人間、自分にあるものにしか気づかない。20代独身男性と、子供が3人いる主婦の方がスーパーマーケットに行ったとして、見るモノが全然違うでしょ?と言えば想像がつくであろう。
 そして、自分にあるものを他人に投影して見てしまう。

 今回の件についていえば、レジの方の何らかの素振りが、おじさん自身が持っていた何かを刺激した結果、おじさんが自己紹介をしてしまったのではないか。

 ...と書いていて、先週、職場で部下に怒ってしまった自分を思い出した。
 部下にお願いした資料が、理想のスペックで出てこなかった。
 部下に注意している時、初めて、お願いする時点で自分が何もスペックを描いておらず、というか描く余裕もなく、あいまいな発注しかできていなかったことに気づいた。
 つまり、タスクの処理に戸惑っている部下は、自分自身だったわけである。

 「人のふり見て我がふり直せ」
 
 
 けだし、名言である。













 



仕事を極める、突き抜けるって言うのは簡単だけど。。 [日々感じたこと]

 今日は、大手町付近の喫茶店で「調理場という戦場」を続けて読む。

 4章目(4店目)でこれまたガツン、とやられる。
 
・「楽しさ」というものは、きっと、苦しさを抜けていないと掴めないんだと思います。「板一枚の下が、もう深海だ」とでもいうような意識を経たあとに、最高の楽しさがやってくるような...。

 突き抜けるまでとことんやり抜け、ということかと思いますが、我が身を振り返ると、「最高の楽しさ」が待てなくて、諦めたことばかり。

 資格試験なんか、資格の種類をころころ変えつつ、テキスト1冊をまともに勉強し通したことは1回もない。特定の分野を勉強しようと思っても、最初の1冊を買うまでが楽しみで、実際に勉強する段階に至ったことはほとんどない。

 逆に、突き抜けた経験を思い出すと、唯一やり通したのは、留学して勉強した中国語であるが、それは「話せないと死ぬ」と本能的に悟ったからである。学生時代に勉強したことがなかったので、それは苦痛であったが、半年くらいたって、「あれ、俺話せるじゃん!」とふっと気づいたとき、急に中国語が楽しくなった記憶がある。

 一方、仕事はどうか。ひねくれものの私には、極めるべき深海が遠浅の海になっているように思う。例えば、調べ物。少し昔は、データを調べようとすれば、図書館で半日、一日作業であった。そんなデータをPCに放り込んで文章を作る時、何か自分がすごいクリエイティブなことをしている気がしたし、ものすごいやりがいを感じていた。
 しかし、時が立って、今はネット全盛の時代。データのほとんどはネット上にあるし、ご丁寧に加工までされている。かつてと同じような作業をしても、味気のなさが残るだけだ。

 もう一点、日本のビジネスは、フロンティアが開拓され尽くす一方、少子高齢化の影響もあり、フィールドが拡大するどころか、どんどん縮んでいるように思う。銀行を例にとれば(私は銀行員ではありません)、かつては、全国津々浦々、設備投資の需要があり、当時銀行員であったとすれば、自分の決断が相手先企業、ひいては地域に貢献する満足感が味わえたかもしれない。
 そして、今。企業がどんどんアジアに活路を見出し、また、閉鎖していく中、地方で新規の設備案件を見出すことは難しい。既存の案件(住宅ローン等)を競合から奪い合う消耗戦をやるしかない。奪い合い要員として現場に放り込まれた時、果たしてやりがいを感じることができるのか?

 須藤さんの言葉を借りれば、かつて「生命力」でやっていた仕事が、「精神力」でやる仕事に代わってしまっている、そんな場面が増えているように思う。

 もちろん、希望を捨てているわけではない。いままでのやり方が通用しないからこそ、制約を外して新しい手法を試そう、なんて取り組みが出始めている。農協改革やら、岩盤規制の見直しやら、古くて新しい問題の中の殻をぶち抜いた中から、新しいフロンティアが生まれるかもしれない。

 そんな時役に立つのが、表層で起こっていることにとらわれず本質を見抜く透徹した視点のような気がする。これは、表層をぶち抜いて本質に触れること、斉須さんの言葉を借りれば、板一枚の下を掘り下げて深海に触れることで得られるのだと思う。

 ということで明日から勉強する気になったの巻。

 







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